他者が悪夢にうなされたというランダムな不幸に対して「日頃の行いが悪いから」と非科学的意味付けを押しつけるというのはなかなかの問題発言です。
ここまで劣悪度の高い発言には、かならず本人にむしゃくしゃしている何かがあります。この件の場合、前夜にあぴちゃんが就寝時間を過ぎてふざけていたことを叱責したことを根に持っているのだなということが瞬時にわかりました。
そうであってもこの発言は問題です。できるだけ再現させないようにしたいもの。ママをここまで不快にさせると本人はどんな損失を被るかを説明することです。
なかには、親の愛というのは無限かつ無償供給されるべきものであり、どれだけ嫌味を言われても無限供給システムに言及されるべきではない、と考える方もいらっしゃるのではないかなとは思いますが、夫婦間の愛情も親子間の愛情もそれを健全に存続させるためには、双方に対する基本的リスペクトは欠かせないものと私は考えています。
だから私はこのように、日頃もあぴちゃんに「相手をリスペクトする」ということについて話をします。もちろん、子は親をリスペクトするべきと考えているわけではありません。親も子をリスペクトするべきです。対等なものだからです。
子どもには、試行錯誤のうえ、いい塩梅の嫌味で気持ちを発散してほしいものです。要は嫌味の中にも人を傷つけずに自分の気持ちの骨子を表現する流儀があるはず。そこにたどりつくまでにはたまに地雷を踏むのもよし。「がんばれあぴちゃん!」という感じです。
いまだに小学四年生が可愛くて仕方ない理由 小学校中学年は、言葉が達者になってくるのと同時に抽象的思考力もぐんと向上し、日々の会話がとても楽しく面白きものになります。それは間違いなく正の側面です[…]