「涼子はなぜ、私たちひとりひとりにお金を包んだの?私たちは夫婦なんだから、合わせてひとつでよかったのに。」
すべては祖母の、この一言からはじまる。
先日、コロナで会えなくなりすでに二年以上も経ってしまった祖父母に荷物を送るついでに、なんの気なしに、お金も包んだ。照れ隠しのような意味もあり、ダイソーで選んだ可愛らしい封筒ふたつ。
ひとつには祖母の名前をかき、もうひとつには祖父の名前。きっちり同額をそれぞれに包み、裏には自分の名前、「涼子」と書いた。なんだか今思い返すとお年玉のようだ。
祖母からの電話は忘れた頃にかかってきた。どうやら連日の雨とよくわからないごちゃごちゃとした事情で荷物の到着に時間がかかったらしい。
電話口の祖母はなぜか泣いていて、なぜと問うと、わたしの気持ちが嬉しくて感極まってしまったらしかった。ひとしきりの感謝の言葉をハイハイと聞いたあと、祖母が投げかけてきた質問が、冒頭の質問である。なぜ封筒はひとつではなくふたつだったのか。
わたしはこれを聞き、「境界のない世界を生きている人の言葉だなあ」とつくづく思ってしまったのである。
大好きな祖母の生活はわたしにとっては、ずっと異様だった。なにが異様かって、いつも彼女の生きる場所に祖父がいることがである。祖父の退職後、ふたりはいつも一緒だった。生活も、休息も、娯楽も、どんなときでも二人はひとつ。どこにいくにもいっしょ。
精神的にお互いから離れがたいというより、二人でいるのが自然であり普通であると二人とも、はなから信じているといった塩梅だった。
祖母は自分が行きたいと思う場所も祖父の気持ちを思いやり行かない選択をすることも普通だった。その選択はわたしにとっては普通じゃなかった。だから異様だった。
二人はまた、家族たるものは家を離れても支えあって生きていくものという物語も信じているようだった。
孫のわたしがいくら1000kmも離れたところで働くようになってもそれはいっしょ。祖母はどこまでもわたしについてきた。電話で。そして手紙で。近況を聞き、心配する。おそらく距離は関係ないんだと思う。たとえ地球の反対側にいっても祖母の心配も無効になるというわけではなく、おそらくわたしが地球のどこかで生きている限り、わたしは彼らの、境界があいまいな世界の一部であるというわけだ。
(あらためて物語の力というのは本当に強力だ。物語は、距離を超え、時空を超えて、対象を心配できる力を授けてくれるというわけだ。)
ところで、つい先日わたしはこのような漫画を描いて、SNSに投稿した。
こちらにきたコメントをひとつ紹介する。
今回のあぴママさんの投稿で、「自他境界」の言葉が浮かびました。この、子を尊重する(独立した存在)。が、とても愛情深く思えるのは、私が母との境界線を引けてないからでしょう。そして、肯定!これが、「私は私でいい」って思える自己肯定を育ませてくれるんですもんね。やっぱりすごく大事だよなと思いました。そして、私もあぴママさんのように、自分の「正」をこれから試行錯誤しながら選びとっていきたいと思いました。
この方のコメントで使われている言葉「境界」と、わたしの祖母への「境界のない世界を生きているな」という感覚の中で使われた「境界」という言葉はおそらく同じ意味だと思う。
「個を重んじること」。それを愛ととらえている私は、だからこそ、祖母と祖父ひとりひとりに対してお金を包んだというふうにも理解できる。反して「ふたりでひとつ」という、自分と他者の境界があいまいな世界を生きている祖母には、きっちりふたつに分けられた封筒がなんだか落ち着かなかったというわけだ。
ところで、わたしは自分もチャンネルを持っているVoicyという音声コンテンツのプラットフォームで、ユーザーとしてフォローしているチャンネルがふたつだけある。
ひとつはにしけ婦人のもの。(にしけ婦人とは親交がそんなにあるわけではないが、思考が似ていると思う。勝手に古い友達のように感じている。こちらなどは首がもげそうなくらいにうなずいた。グラデーションの話。)もうひとつは哲学研究者の近内悠太さんのもの。
先日近内さんの音声「オーソリティもガイドラインもない現代をどう生きるか」を拝聴していておもしろい視点と出会うことができた。記憶をたよりに手短にあらわすと、
近代より前は、人間が生きていくにあたり、神話など「共同体のなかで同意にいたった理解の体系」が存在していた。人々はそれを信じることにより、自分のライフイベントなどもその文脈で理解していけばそれでよかったわけで、いわば個人の思考などが必要ない状態ともいえた。個人はその理解体系を信じることで思考から解放されているという状態である。しかし近代以降、そういった神話が力を失い、かわりに個人が確立されていく。人権という考え方が誕生し、神話などの「寄るすべ」がなくなってしまった。現代というのは、神話などの寄るすべを失った個人が、それなしに生きていけるのかという壮大な実験をしている時代といえるのではないか。
と、こういうことだった。自分が彼の主張をしっかり理解できているのかはわからないが、これにはかなりピンとくるものがあった。
わたしにとって「現代の寄るすべ」として理解しうるものは、祖母の信じる「家族神話」であり、これまで通ってきた学校や勤務先での「同調圧力」でもあり、多数の人が信じているであろう「このように生きていけばなんとか一生安泰という人生モデル」だ。
つまりわたしが、信じたくても全然信じられなかったたくさんのものもの。
そして、わたしの漫画を好んで読んでくれる読者というのは、そういった「寄るすべ」に少なからず疑問をいだいている人なのではないだろうか、などと思ったのである。
少しだけ話を変える。
数年こうしてブログを運営していると面白いこともあるもので、いくつかの出版社の方から書籍化についてのお話をいただいた。
ことの顛末は、先日の投稿に記したのでそこを読んでいただくとして、たいていの編集者の方は、何者でもないあぴママの作品を売るためには権威からのお墨付きが必要だとし、そのために、精神科医や心理学者の監修をつけて本を出版することを勧めてくれた。
わたしはなぜかそれに最後まで同意することができなかった。同意できない理由を自分でも明確に説明できなかったのだが、近内さんのラジオを聞いて、半周遅れでようやく理由を理解した思いがした。
わたしはおそらく、寄るすべのない一人の人間として、どこまで寄るすべなく生きていけるかという壮大な実験をしている。
毎日描いている、なんてことない漫画作品を通じてたったひとりで実験をしている。私にとって私の漫画はただの実験過程の記録なのである。権威を付加してなにかの体系であるかのように見せたくないという気持ちだったのだろう。
祖母に育てられた、自分と他者の境界のあいまいな世界出身の自分としては、自分と他者の境界を意識的に保った世界は毎日刺激的だ。小学生の育児中はことさらに。
つい反射的に出てしまう、自分と他者の境界なき世界の作法を抑えて、自分なりの愛を追求してみること。そんな中で、言葉にすることができた考えをあぴママの本音という有料空間で言語化すること。そんなことに熱中して半年が経つ。
仕事との両立が大変で、もうブログをやめてしまおうかとチラと頭をかすめることも何度もあった。しかし、そんな頃合いをみはからったかのように、読者から熱のこもった共感や激励の言葉が届く。
たったひとりで壮大な実験をしていると思っていたけれど、どうやら私はひとりではないらしいと、これまた周回遅れで気付くのである。