蒲田で、母親が3歳児を家に放置して遠方に出かけ8日間も戻らなかったところ、3歳児は脱水症状で死んでしまっていたという痛ましい事件がおきました。3歳児を8日間一人で放置するというのは、常識的に考えると想像に難く、多くの人がこの点に動揺し、怒りを感じ、母親に対して集中的な批判が集まったようです。
このような事件はたびたび起こります。そのたびに胸にするのが、私がもしこの虐待の加害者となった母親と同じ環境にあったなら、自分が加害者になったとしてもおかしくはなかったのではないだろうか、という思いです。自分の持っている有象無象の特権に自覚があるからです。
たいていの人のもつ特権
私は知り合いが一人もいない土地で、夫婦ふたりきりで子育てを開始しました。結果的に、地域の人や良い園、そして素敵なベビーシッターにも恵まれ、たくさんの大人や子どもの中で子を育てることができました。自分が、本当に手一杯になったら誰に頼ればいいかをよくわかっていたし、有料のサービスを頼むための経済力もありました。しかし、こういった虐待事件の加害者になる親は、私が持っていたものを一つも、もしくは少ししか持っていないように見えるのです。
- 見知らぬ土地で人とつながるスキル
- 人のお世話になることを厭わないスキル
- ダメになったときに声をあげるスキル
- 経済的に自立するスキル
- 育児の常識とされていることをなんとなく読み実現するスキル
子育てに必要なのは、母性などというあいまいな言葉で表されるものではありません。今までに培った上述のスキルを総動員してなんとかサバイブする、これが子育てです。
特権を持たないことはその人のせいなのか
これらのスキルを持たないことは、決してその人のせいではないというのが私の持論です。これらは自分が育つ過程の中で少しずつ得ていく無形の資産です。良き環境と健全な育ちを助けてくれる人が欠落している場合に身に付けられるものではありません。自身の親の経済力、与えられた環境、人格形成期にどんな人たちに囲まれて育ったか、など本人の意思ではどうにもできない分野のものが深く関わってくるものだと思うのです。
今の日本では、たとえ充分ではなくともたいていの人はこれらを持っている。だからこそ、蒲田の虐待事件に代表するような加害者の陥っている悲惨な状況を想像できないのかもしれません。
虐待の加害者は、法によって裁かれるべきである。この点に、私も異論はありません。ただ、加害者の人格を否定し、自分とは違う人の所業として、彼らと自分の間に線を引く声に異論があるのです。あなたが普通にもっているものを、彼らは普通にもっていなかった。その状況で彼らは子育てをしていたのかもしれません。
区別しないで弱き人のことを想像する
現状を正しく把握したい。どうしてこのようなことが起こったのか、社会の状況を知りたいという建設的な思いを、この、他人と自分の間に線を引く短絡的な発想が邪魔をします。あの人は私と違う人だからそういう残酷な行いをやったんだ。この線引きは、私たちから想像力を奪います。多数の人がもつ特権を持たなかった人たちのことを想像したい。まずは半径5メートルにいるかもしれない助けを必要とする人に何ができるか考えていきたい。そして実践したい。このような虐待事件を私は到底、他人事とは思えないのです。
この文章に書いたようなことを、ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)を読むと、より真に迫って想像できると思います。つらい描写が多く、私はこの本を読んで3日ほど暗澹たる気持ちで過ごしてしまいました。
私は独身時代、他人と自分の間に線を引く短絡的な発想を実践していました。あの人はとんでもない人だから自分の子を殺したんだ。信じられない。しかし、子育てを経験し、上述の本を読み、そういう考えがなくなったと思います。この問題の複雑性を理解できるようになりました。読むのがつらい本ではありますが大変な良書だと思います。