最近、顕著に感じるのが、わたしが悩んできたことや、通ってきた道、そこから得たさまざまなことがそのまま、娘のあぴちゃんへの教えに役立っているなということです。
彼女が現在進行形で抱える問題とか彼女を悩ませているものごとへの回答や解法のようなものがほとんど一瞬でわかってしまう、そういう心理状態に今のわたしはいます。
中年の謎の万能感、それを元にした老害への確実な一歩、そういうところにいるわけです。
友人関係、性のこと、勉強や進路の話。ぜんぶ、ぜんぶ、私の視点から彼女にいろいろと話ができますし、臆することなくなんでも伝えてきました。それは、そうするべきだと思っていたから。
だけど最近感じるようになったのは、そういう謎の万能感を持ったおしゃべりな女が母親であることは、けっこう不幸なんじゃないかなということです。
「目の前にある有象無象のいろいろなことに子どもの心が悩まされる。それはその正体がなんであるのかがわからないから。親はその正体がなんであるのかを教える。子どもの心が楽になる。」
このサイクルもまぁいいかなとは思うのですが、今の自分を形作ってきたのは確実に、その正体がなんであるのかがわからない中で、自力でその正体を掴もうとあがいてきた歴史にあると感じます。
今のあぴちゃんとわたしの関わりを見ていると、わたしは「正体を教えよう、教えよう」と必死で立ち回っています。親なので、当たり前のことです。
でもたぶん、これってよくないなと思い始めました。
というところで、今のわたしがやっているのは、黙る練習です。
答えを知ってると思っているけど、あえて黙っている練習です。
あぴちゃんは、いろいろとひとりで苦しみ始めてますけれど、それが大事なんだなと思いながら横で見ています。
こらえきれずにこちらに寄ってきたときは、老害をやってしまうけれど。