![こうやってうんうん考えて苦労して仕事しているのに](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison.jpg)
![きっと人からみたらずっとパソコンの前でぬくぬく座っているだけなんだ。](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison2.jpg)
![私だって他人からみて大変そうな仕事がしたいよ](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison3.jpg)
![他人からみて大変じゃなかったらその仕事は大変ではないのですか?](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison4.jpg)
![Cコードって絶対難しいよね。私だけなのかな](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison7.jpg)
![みんな難しいって思っているのか調べてみよう](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison8.jpg)
![あなたにとって難しい。他人にとって難しいことは関係していますか?](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison9.jpg)
![誰がなんと言おうとおいしいものはおいしいっポ](https://apimama.info/wp-content/uploads/2021/02/comparison5.jpg)
なぜ他人の感覚を求めるのだろう
たとえば、「仕事が大変だ」とか「このコードはとても難しいな」っていう気持ちは、とても個人的なものです。主体は自分です。
それなのに、そういう個人的な気持ちにまでも他人の指標を持ち出したくなる気持ちって…たしかにありますよね。
「仕事が大変だ」と他人に思ってほしいのは、なにより自分で自分の仕事をしっかりと認められていないからですね。「このコードが難しいのは私だけ?」っていう不安な気持ちは、私はコードを学ぶにあたってなにか致命的なミスをおかしていないだろうか、正しい道を歩んでいるのだろうか?というところからきているわけですね。
いつも、「なぜ」を繰り返すと本質が見えてきます。
「なぜ私は私の仕事をみとめていないのだろうか」
「なぜ私は最短の道に固執しているのだろうか」
ここまでブレークダウンできたら答えを出すのはとっても簡単なのでした。みなさんには、他人の指標が必要なことはありますか?