人の感情と言語能力の関係
あぴちゃんが小さかったころは、われわれは車を持っていなかったのもあり、自転車がメインの移動手段でした。
あぴちゃんを後ろにのせて、どこまでも走りました。今考えるとちょっと危ないなと思いますが、当時は自転車がないと、移動に困りました。けっこう危ないなと思う機会も何度かあったのですが、そこは心を麻痺させて、日常生活の便利さをとっておりました。
そのときに、ある坂で転倒してしまい、自分としては、当時の記憶として「あぴちゃんにたいして申し訳ない」という心がギュッとする感覚しか残ってなかったのです。あぴちゃんも怖い思い出として残ってるんじゃないかなぁと思い聞いてみたのです。
あぴちゃんは、転倒時の記憶をかなりはっきりと覚えていて、転倒するときに、世界がやけにゆっくりとなったとか、やけにリアルなことを言うのですが、不思議と「怖い」という気持ちはなかったそうなのです。
そのへんは、泣かなかったという事実とも符合します。
そして、彼女は転んだあと「ママが可哀想だ」と悲しくなったそうで、わたしはびっくりしてしまいました。そして、そのときに考えたと彼女が言うことが、けっこう複雑な思いが交差する感じの感情だったので、二重にびっくりでした。
まぁ、そうですよね。人はどんなに若くても年をとっていても、その頭の中、心の中に、複雑な感情が走ります。肉体から、心から、いろんな成分が生じます。
それを言葉に緻密に言い表せるかどうかというのは、感情が生じているかいないのかとはまったく別問題なんですよね。
あぴちゃんは、さすがに中学一年生になり言葉が年なりに発達してきて、「当時はこう思ってた」とか「こう感じてた」とか言ってくれるんですけど、もちろんそれが生々しく当時の真実を語っているのかってまた別問題ではあるのですけれど、それでもやっぱり子どもといっしょに暮らすのはおもしろいなぁと言う他ないのです。
いまだに寝顔は、0歳のころのあぴちゃんと同じですし、しぐさも残っています。2歳、3歳、7歳、10歳、いろんなあぴちゃんとずっと同時並行でいっしょに暮らしているような心地でおります。なんか、かわいいんですよねぇ。やっぱりいまだに変わらず。
(こういう漫画を描くとですね、絵にヘルメットが描かれていないことを怒ってくる方がいらっしゃるのです。なんて申し上げればよいのかわかりませんが、絵を描くのってけっこう大変なので、あぴママの漫画は平気で指が4本だったり3本だったり、いろいろなことを省いてます。自転車なんか見てみて、超ひどいから。へたくそなんですよ、許してね。)