本日のテーマは「育児」です。
タイトルを「子どものすべてを受け入れ、愛することへのヒント」とさせていただきましたが、私自身、これがなにを意味するのか、果たしてこれは必要であるのか、よくわかっていません。
こういう言葉って、心理学、つまり学問というフィルターをとおしてなんとか人と人との関係の本質に迫っていく過程において、むりやり発明されあてがわれた言葉という感じがしていて、よくよく考えてみるとぜんぜん間違っていることも多いし、個人の実感とかけはなれていることも多いです。
それでも、権威がそれを言うから、なんとなくその言葉を内在化してしまう人がとても多くなる。結果、「わたしって子どものすべてを受け入れ、愛することができているのかしら…」と不安になる人が出てきます。
正直言って、たいへん阿呆らしいです。
だけど、今回はこれをテーマにいろいろ言ってみます。
わたしには、中学二年生の娘がいます。呼び名を「あぴちゃん」と言いまして、自分にとっては世界一可愛く美しい、ひとりの人です。
わたしは彼女との関係において、「きたない」ということを教えないことをもっとも重要視してきました。若かったわたしは、これを教えないことがすごく大事なんじゃないか、こういう仮説を立てて、それを実践してきました。
正直言って、めちゃくちゃきつかったです。自分が経験したことのない状態を、自分のたてた仮説のみにおいて実践するということは、かなりの精神力を使うことだからです。(自分にとっては、「娘に手を上げないこと」、人によっては当たり前のこのことも実践するのに、大変な精神力を使いました。自分が手を上げられて育てられたからです。参照:いい親になる方法)
先日、そのような仮説に行きついた理由を、20代に経験したある出会いにまでさかのぼり、とうとうとVoicy「女子にはきたないを教えないことが自己肯定感をはぐくむ。そういう教育を目指す」で話したところ、コメントがいくつかきましたから、それを紹介します。
今の社会ならボコボコに叩かれるだろうなと思ったとともに、この放送を聞いて、裸にいやらしいとか汚いとかそういう意味づけをしてるのは社会なんだと気付かされました。
ありのままの身体で美しい、それが1番自然だと思います。
Voicyでは、「きたない」を教えないことによる「すべて受け入れる」態度についてに焦点をあてて話しましたが、今回は、すこしちがう観点から、自分のかんがえる「子どものすべてを受け入れ、愛することへのヒント」をまとめてみたいと思います。
われわれは、子どもと過ごす日常において、具体的にどういう心もちとどういう行動を示せば、子どもと自分の二者間において、愛情が最高の形で循環し、ほとんど永続的なここちよい関係がつくれるのでしょうか。
こういうことへの具体的正解がほしい方のニーズに答える記事になっていると思います。