【あぴママの本音】お金を手放そう。│あぴママびより
お金はなそう

【あぴママの本音】お金を手放そう。

今日のテーマは、お金です。

年収3万円代の極貧時代から、一定割合の寄付を続けてきた、すこし筋金入りのわたしです。

(そのまま事実を書くとちょっと偽善っぽくなるなと思い、書き足しますが、当時は、貯金で生活していたこともあり、なんとかなってました。)

計算して厳密にやってるわけではありませんが、今でも年収の1割~2割くらいは、どこかに寄付しながら漫然と生活しているわけですが、この生活をつづけ、見えてきたものがあります。

別に寄付したって、承認欲求は満たされません。

嬉しくもなんともありません。

「ありがとう」という言葉がこちらに直接届くわけでもないし、お金が目の前で消えていく、以上。という感じです。

でもだんだんとわかってくるものもあるのです。

お金さえ一定割合捨て続けていれば、たどりつける境地もあるんじゃないかと感じてます。

各種宗教が、お金を喜んで捨てよ、とか、お金をお布施せよ、とか、いろいろな指南をとなえている理由もわかってきます。

今回は、それについての漫画です。

この12月がたいへん忙しかった。まずは、ボイシーエピソードアワードの受賞、そして対談。対談はガザへの売上全額寄付型だったから寄付先とのコミュニケーション。こんな忙しいのはもう嫌なので、何かが間違っていたと考え、この反省は来年に活かしたい。
今日のテーマはお金にする。対談のとき、聞かれたことが面白かったから。 何で自分のお金を他人にあげるのか? 社会的には極めてもっともな質問だが、自分にとってはとても新鮮だった。
質問の背景は、過去の能登への寄付とか、そもそもブログの売上の一部は、貧困な子どもに向けて寄付し続けていたこと、また対談の売上は全部ガザに行くことなどもあったんだと思うが、自分としては そ、そうか・・・!!「自分の」お金・・・!!「自分のお金!!」 この言葉がとても新鮮で、また一つ世界の解像度が上がった思いだった。
私は昔から数百円とかをきっちり割り勘sにして相手と勘定を分けるのが嫌な性分だった。全然わたしぜんぶ払いますけどね・・・なんなのこの茶番 もし百万円だったらね、そんなお金もってないから、きっちり相手に五十万円払ってもらいたい。ただ、なんでお互いにあるに決まってる単位のお金をそんなにきっちり十円単位とかで割るんだろうという感覚は今に至るまでずっとある。
多分なんだけど、「自分のお金」観が著しく弱いんだと思う。お金の所有域を表す線引きがとても薄く、非常に流動的で、たまたまわたしのところにいる奴、みたいな感覚でお金というものをとらえている。
あまり「自分のもの」観がないことにより、そこを根っことしてうっすらと「たまたまもってる方が払うべき」という独特の倫理観が育ってきている。 政治的にはお金もちへの課税がめっちゃ当然ってやっぱりこういう奴は思うことになる。
赤ちゃんを育てている人と遊ぶことになったらだいたいのお金は自分が払うべきだと思ってる。だって赤ちゃんを育てながらお金を作るのがすごく大変だったことを覚えているし、私にはいま赤ちゃんがいないから。
貧困に喘ぐ人がいたら平気でまとまった額を振り込んでしまう悪癖もある。わたしは今貧困に喘いでいないから。
クリスマスのボイシーで話したのは、そもそももうわたしの払うお金は、ほとんど全て誰かを応援するためのお金だということだ。 12/20放送「お金をかけずに麻薬的幸福を得るクリスマス」
大好きなあの人のおせち料理で正月を迎える。それがあの人の売上になるなんてなんて素敵。いつもお世話になってるあの人の打ってくれた蕎麦で年を越す。あのお蕎麦屋さんがいつまでも繁盛しますように。
借金して開いた念願の店。繁盛するまで、わたし通うよ、あぴちゃんと。少し遠くても自分にとってはちょっと高くても。
心と心で付き合うにあたりたまたまお金が介在しているという形だから、わたしは多分、単なる「金払いのいい客」にはなっていないと思う。お金とは「明確に線が引かれた自分のもので、サービスを買うためのもの」ではなく人々と心と心でつながるための感謝を伝える時に介在させると便利なもの。
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