子どもの自己肯定感を育ててあげるのがとても大事であるという主張ってほんとに頻繁に目にする。世間では、ことあるごとに子どもの行動を認め、褒め、ポジティブな声かけをすることがさかんに勧められているようだ。日頃の声かけで愛情を示し、子どもを認めることによって、自分は愛されているという感覚を子どもに持たせ、自信をつけてやるのだそうだ。
それらは一見すると、理に適っているように思える。しかし私はいままで、こういう態度を勧める意見とはちょっとした距離をもって娘と接してきた。私にとっては、高い自己肯定感よりも、自分の能力や存在意義を客観的に、かつ正確に測る力のほうがずっと大切であるように思えるから。私たちが生きているのは、実践的に人の役に立たなければいとも簡単に切り捨てられてしまってもおかしくない厳しい世界だ。そんな不幸が起きてしまったときに、親によるプラスの声かけによって育まれた自己肯定感というのは、いとも簡単にへし折られてしまう。もっとも大事なのは、そういう不幸の渦中にいてもなお、自分の力を客観的にみて分析し、その場に与えられる価値があるのかないのかを、見定める力である気がする。自分の力を低く見積もってもいけない。高く見積もってもいけない。そうして見定めた価値をその場所で発揮できていないと気付いた場合は、勇気をもって場所をうつるなり、逃げるなり、決断をするべきときだ。価値の見積もりの絶妙なバランスに、親からの偏愛、プラスの声かけの蓄積が邪魔をするように思うのである。
もちろん、失望の底にたどり着いたとき、それでも生きてていいのだと思える最低限のラインの部分に関わってくるのは親から受けてきた愛情だろうとは思う。だからこそ、いつもそばにいる、ピンチのときは必ず助ける、徹底的に味方をする、という態度は意識的に見せるようにする必要はあるとおもう。でもそれ以上は特に意識はしていない。
先日、娘が、学校でなにかの教科が苦手で自分のことを頭が悪いというふうに言っていたので、私は「そんなことはない。わたしが会ってきたすべての子のなかでもあなたはとても優秀であるように思う。」と率直に答えた。そうすると娘が、「いや、ママがそういうことを私に言うのはよくわかるし、本当に思っているのは伝わるけど、ママの評価とみんなの評価はまた別ものなんだよ。」というようなことを言ってきた。齢8歳で親の評価と世間の評価をきっちりと分けているのだから、やはり、親のほうが気をつけてポジティブな言葉のシャワーを浴びせ続けることの意味は特に大きくはないのでは?と思った次第。
これはわたしのいち意見に過ぎず、これに関してはこれからも広くいろいろな人の意見を聞いていきたいと思っている。