




求めよ、さらば与えられん
これは、わたしが教養のために聖書を読んでいたときに見つけた言葉です。本来はこれは神を求め続けよ、という意味のようですが、わたしはこれに全く違う意味をあてて自分の人生に使うことにしました。
「求めなければ、与えられることはないのだ」という意味にしました。そしてこれはわたしの1〜4歳くらいまでの幼児育児のテーマでした。これをこの年齢で教えたら、子どもは自分の希望をたくさん周囲に話せるようになるはずだと思いました、可愛い子どものためなら周囲は動きます。基本的には子どもの願いを叶えようとしてくれるというわけです。そうすると、子どもは自分が求めたことにより与えられたという経験を重ねます。これはとてもいいことです。
なぜなら、大人になってもこの流れは全く同様だからです。自分の心の中だけで願いをもっていても叶わないとは言いませんが、他人に願いを話したら、周囲は少しでも協力しようとします。たくさんの人が協力してくれたら願いが叶うスピードも早くなります。
ですから幼い時分は、口頭でこれを何度も何度も伝えました。必ず言いなさい、と。最近はそういえば、あぴちゃんにこれを全く伝えることはありませんから、あぴちゃんにはこれが身についているのだと思います。今は次のフェーズです。他者にどう動いてもらうか。というところです。
他者に動いてもらうストーリーをつくる
わたしは、あぴちゃんの言うことはまずすんなり聞きません。小学校一年生くらいからそうしていたと思います。というか、聞かないのはわたしの怠惰な性格ですから、素のままでいるとも言えます。
漫画ではわたしはラーメンをつくることを拒否しましたが、ああいう感じです。今朝も体温計をとってくれ、とあぴちゃんから頼まれましたが最初は拒否しました。面倒臭かったからです。
しかしあぴちゃんが何かしら相手を動かすためのストーリーを用意できたら臆せず動きます。動くに足るわたし側のメリットを考えるのは、人を動かす者の仕事です。自分の感情で人を動かさない、ロジックで納得の上で動いてもらう。社会生活ではこれを効率よく学ぶことはできませんから、ここは親の役割だと思います。
急に遠い公園にいくことになったあぴちゃんが、協調性のない男の子にいかに動いてもらうかを考えまくって成功したお話はこちらで紹介しました。ほとんどサバイバル術です。しかし一生使えるサバイバル術になるだろうと思います。