たとえばスーパーに売っているリンゴを盗むのも、映画館で映画をタダ見するのも、他人に損害を与えるという点では全く同じ行為です。ただどうしてもそういうカテゴリーではくくれない、人間の感覚というのがあると思います。漫画はそれについてです。
映画を制作している人たちや配給をしている人たちにとってタダ見は、物を盗む行為とまったく同様の行為でしょう。でもなんとなく人の心として良心がとがめないのは、映画のタダ見の方だろうなと思います。「どうせ自分ひとり透明マントをつけて侵入しても、そもそも上映する予定だったものなのだから大した損害にはなるまい。誰も傷つけまい。」透明マントを巡る妄想の中で私が持ったこの感覚は、とてもダメな感覚です。制作側へのリスペクトを著しく欠いています。
ごく最近、無料で漫画を公開してきた漫画家が、話の続きを有料化すると宣言し多くの読者がそれにブーイングのコメントを寄せているところを拝見しました。私は、ブーイングを行なっている人たちは、「漫画家が暇だから漫画を描いて自己承認欲求をみたすためだけに表現活動をしている」と思い込んでいるのだろうかと考え込んでしまいました。そのブーイングはあまりに漫画家のスキルと、彼女がかけたであろう時間に対してのリスペクトを欠いていたからです。
私は、漫画のようなエッセイのような作品を毎日のように描いて無料で公開していますが、なぜか人生相談が頻繁に読者から舞い込んだものでした。(今現在は公開を条件に積極的に受けていますが、かつてはそんな宣言もしていなかったのに。)それらは丁寧に「お時間のあるときでもいいのでお返事待っています。」と結ばれていたりします。わたしは、それらに対してよく、私の時間は私にとって有料なのに、相談者にとっては無料なのだなと思ってしまったものです。私の時間に対する対価という観点がそれらの相談内容には欠けていたからです。
私は自他にそのような出来事があるたびに、相手の仕事や活動、そして時間をリスペクトするという意味での人々の想像力の限界について思いを馳せてきました。そしてときにはそれに不愉快な思いを抱えたこともありました。
しかし、娘と透明マントの話をすることで、きっと自分にも、想像外の他人の時間や経済活動に、リスペクトが欠けている場合があるのかもしれない、と気付きました。
細心の注意を払って生きているつもりではいますが、娘と透明マントのたとえ話をしていてハッとさせられたのです。その気付きをもってするとなんだか、今まで遭遇してきた腑に落ちない出来事の数々を簡単に受け入れられるようなそんな気がしてきたのです。
「なぜ、あの人たちは他人の時間と労力にこんなにも無自覚なのだろう」とさんざん思い悩んできたことも、ある場合では自分が知らずに加害者となっていた可能性がある。そのことを考えるとなんだか途端に彼らの気持ちがわかるような気になるものです。それはおおよそ「想像力の限界」、「相手の都合を考えるキャパシティの限界」と一言で片付けることができるものであり、受けた側が思い悩み分析することなど必要のない現象のはずです。
あぴちゃんとの会話はいつも、気付きと発見に満ちています。
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