食事マナー、お片付けのマナー、お外でのマナー。
小さくて無垢な子どもを社会に適応させるのにあたり、このようなマナー教育に右往左往、日々がんばってらっしゃるお母さんは、きっと多いことでしょう。
わたしもその一員でした。
我が子はお行儀がとくに悪い子だったのと、わたし自身、「マナーを教えるのは本当に正しいことなのか?」などと、いちいち立ち止まって考えざるを得ない難しい性格だったのもあり、我が家にとってのマナー教育は、たいへんな難航を極めておりました。
いまだにマナー教育の過程にある、我が家ですが、わたしはもう一切迷っていません。悩んでもいません。
完全に会得しました。(大げさだと笑ってください。)
「ごはんを咀嚼するときは口を開けずに綺麗に食べなさい。」「食べ物で遊ぶのはやめなさい。」「きれいに片づけしなさい。」こういったマナー教育を、型から言葉で教えるのはおかしいのではないか。
若い頃からずっとこの感覚はあったけれど、自分の違和感の正体とその理由を理論的に説明することは、ずっとできませんでした。言葉にならなかったんです。もやっとした違和感だけがいつも残りました。
しかし、最近その理由をやっと言葉にできるようになりました。10年越しです。
わたしが今日描いたのは、「マナーではなく○○を教える」ということです。そのほうがずっと、確実に子どもの中に残っていくから。しかもわたしが感じていたような違和感、つまり「マナーを教えるのは本当に正しいことなのか」というもやもや感は、子どもに引き継がない形で、綺麗にマナーの本質だけを伝えきることができるんです。
わたしの世代でもやもや感を除去した教育をおこなうと、次世代にまでもやもや感を引き継がないことができます。あぴちゃんも、わたしが伝えたように、あぴちゃんの子どもに純粋なものを伝えていけばいいだけだから。
言わない。強要しない。焦らない。○○だけを伝えていく。わたしのマナー教育を見てみてください。





