娘が受験直前期で、塾に通っておらず、本人が自分の偏差値以上の高校を目指している、という三重苦により、わたしの生活は、だいぶ目まぐるしいです。
この状態が始まる前は、一日の終わりに今日はなにをやったかということをゆっくりと手帳につけて振り返ったり、明日はなにをやりたいかということに思いを馳せたりしておりましたが、今はそんなこともできません。
なぜなら、「今日なにをやったか」の項目数が多すぎて、手帳につけると手が痛くなってしまうからです。
明日はなにをやりたいか、についても同様です。
自分の仕事はほとんどおざなりで、気力と体力と知力のほとんどを娘にささげ、余った分は犬にささげる。
そんな異常な状況にある最近のわたしですが、ひさしぶりにゆっくりとブログに向き合う時間がとれましたので、さいきん考えたことを記録してみたいと思いました。
選挙にも参加したくないし、特定の党を応援することもやりたくないし、そうするべきではないと感じるし、それらの方法によって世の中の間違った方向への暴走を止めるという発想がそもそもまちがっていると感じる、というお話です。
どんな大人になってほしい?
ところで、つい最近、インスタグラムで、子どもの自立に関するアンケートをとりましたら、たくさんの方からダイレクトメッセージをいただきました。
細かく見ればそれらの意見は多様であったけれども、ざっくり言ったらだいたい同じ範囲にまとまる意見でした。
総意はだいたいこんなところでした。

端的にまとめると、子どもが成長したあかつきには、「身の回りの問題が自力で解決できて、経済的にも自立している状態というのが望ましい」というようなことです。
核家族化が進んでおり、日常生活において、さまざまな営みが外注化され、生活に必要な食事、医療、介護、なども随時外注できるこの社会においては、それらのサービスに経済的にも実務的にも問題なくアクセスできる状態が、一般的な人々の考える「自立の目安」となっているようです。
これは論理的に考えて、まぁそうだろうなぁという妥当な自立像ではあります。
みんながこの社会の現状を、身近に起こるさまざまな例を見聞きしながら体感し、そこから逆算して理想像をつくっているわけだから、大衆がだいたい同じような自立像に収束していくのは非常によくわかります。
前提をとりはらい本質に近づいてみたら
でもやはり、自分としては、こういうときにいったん立ち止まってしまうんです。どうしても仮説をもってしまう。
「もし、この現代社会がこのような形ではなかったら、われわれは子どもにどのような自立像を期待しただろうか」
と。
こういうむしろ無意味な仮説の上に自分の思考を置きがちなわたしとしては、やはり子どもに期待する自立像はすこし、ふつうのものと異なるものになります。
わたしは、心底、この社会の中で娘がどう生きようが、割とどうでもいいと思ってしまうのです。
たとえば、いわゆる「稼げない大人」になり、わたしと夫にとっての「穀つぶし」になろうが、他の人にとっての「お荷物」になろうが、もっと言うとすると、海とか山のゴミをひろって食べるようになろうがあまり動揺せず彼女の運命を甘んじて受け入れてしまうだろうなと、今の自分の心の状態や考えを客観的に見ていて、どうしてもそう予想してしまいます。
正しさを追求する大人になれ。
ただ、ひとつ大きくなにかを娘に期待するとすれば、「大きなものにすがって世の中を変えようとする大人にだけはなるな」「正しさを追求する大人になれ。」というところひとつだと思います。
だいたいこのへんから、選挙にいくな、という話になってきます。