おそらく下記の漫画を読んだのだろうと思われる読者の方から育児相談が届きました。
「優しいうそってどんなうそなのか?」「優しいうそならついてもよいのか」という子どもの純粋な疑問に、あぴママならどう答えるかという相談です。以下相談文です。
いつも楽しく拝見拝聴しています😊
あぴママさんの投稿は凝り固まった頭をほぐしてもらう感覚で見させてもらっています☺️🌿
先日、もうすぐ5歳になる息子から
「人を殺したり泥棒したら地獄にいくよね。うそついても地獄にいくの?」と聞かれました。どこからでてきたワードか分からないけど、私は、 「うそにも色々なうそがあるから難しいね、、意地悪なうそとか、怖いうそとか、優しいうそとか…」と言うと、息子は「ふーん。優しいうそってどんなうそ?」と聞いてきました。
例えて言おうとすると、あれ?これ本当に優しいかな?とどれも疑問がわいてきて、自分の口から出たのに、優しいうその例えが言えず、考えすぎて難しくなったから浮かんだら言うねと終わりました😅
幼児からの「優しいうそってどんなうそ?」の質問にあぴママさんなら何て答えますか。良かったらあぴママさんの考えを聞かせてください🌿
この相談文を読むと、おそらく「優しいうそならついてもよい」という価値観が前提にあるのではないかとおもいます。しかし相談者は「優しいうそ」をどう定義づければよいのかわからなくなってしまったという状況みたいです。
「あぴママさんのお考えをお聞かせください」とありましたので、一般論はあえて挙げずに、本問題に対するわたしの考えを順を追って文章にしていきたいと思います。
優しい嘘の定義
わたしはどんな場合であれ、嘘をつく態度、つまり真実とちがうことを言う態度を好ましいとは思いません。したがってまずこの相談文章を読んだときに、わたしの口から子どもに、優しいうそ、意地悪なうそ、怖いうそというふうにうそに性質をつけて説明することはないだろうなと思いました。
私から言わせると、嘘はどんな性質のものであれ自分を苦しめるものであり、嘘にレベル感はないと考えています。理由は後述していきます。
それは前提にしつつ、質問者様が迷っているポイント「やさしい嘘ってどんな嘘?」に答えるとすると、おそらく一般的には優しい嘘というのは、余命3ヶ月の病気のおばあさんに「すこし静養すればきっと元気に生きていけるよ」とさとすような嘘のことを言うのではないかと思います。
おばあさんに現実を直視させないことにより、おばあさんは健気に余生を楽しめるのではないかという配慮をもとにした嘘ということです。
人を殺したり嘘をついたら地獄にいく?
「人を殺したり嘘をついたら地獄にいく。」
これを事実として信じている人には申し訳ないのですが、私はこれは嘘だと思います。あくまで自分の基準だとこれを子どもに教えるのはアウトです。嘘だからです。
(私は嘘をついたら地獄にいくという価値観を持っている人のことを否定しているわけでは決してありません。)
あくまで私の意見ですが、人を殺したらいけない理由は突き詰めると法律でそう決まっているからとしか言いようがありません。もちろん個人としてそういった行為への嫌悪感はあります。社会が合意している人の命を奪うことの倫理的望ましくなさも理解しています。しかし、嫌悪感も倫理観も個人が自分の文脈で理解、取得していくものだと考えています。押し付けられるべきものではありません。となると他者に対して、殺人がいけないと理由として堂々と説明できるのは、法律しかないのではないか。これが私の考えです。
だからこそ、自分の感じている殺人への個人的嫌悪感に基づいて地獄という概念を持ち出し、子どもに殺人行為への嫌悪感を植え付ける、もしくは引き出すことには、個人的に意味を感じません。望ましくないとすら思えます。
こういう気持ちは植え付けられるものではなく、もし湧き上がってくるものなら自然と湧き上がってくるものだと思うからです。子どものどんな感情もつくりだすことはできない、植え付けることはできない。たとえ、殺人への嫌悪感であってもそれはできない。
子どもを育てるにあたり、こういう感覚と姿勢を持っていたほうが望ましいと考えているという理由もあります。
したがってそういう意識づけ、つまり「殺人したら地獄にいく」等の声かけは一切自分の子どもには行わずにここまできました。
殺人したら罪を犯した人はどうなるかを話したこともあるし、心ないニュースを見て涙する様子は見せたことはあると思います。人の命を奪うとはどういうことなのか、そういうことを話したことならあります。
しかし、おそらく社会では、「人を殺したり嘘をついたりすると地獄にいくんだよ」と例え話を持ち出して子どもに教育することは十分に許容されていると思います。なのでやる人はやればいいと思いますし、社会的に問題があるとは思えません。
多数派が正しいとされ少数派がおかしいとされる社会なら、私の感覚はよっぽどおかしいと思いますのであまり参考にされないようにしてほしいです。
どんな性質の嘘でも望ましくない理由
優しい嘘、意地悪な嘘、怖い嘘。色をつける方も多いのでしょう。その奥に優しさがみとめられるのなら、嘘をついてもよいのではないか。と考えていらっしゃる方も多いのでしょう。
正直、どんな姿勢もありだと思います。
しかしここでは、自分の考えを明らかにしてみます。わたしはどんな嘘にも否定的です。優しい嘘についてもいろいろな観点からそうするべきではない理由を持ち出すことができますがここでは一点のみ、あぴちゃんによく話していることを書いてみます。
人は嘘をつきます。嘘をついたときは、真実と違うことを言っているわけですから、のちのち話に整合性がとれなくなることのないように、あのとき嘘をついたということをしっかり覚えておかなければなりません。そうやって情報の整合性を保ち自分の信頼を保とうとするわけです。
しかし、そうしているさなかは、自分の倫理的な心はストレスに侵されます。「嘘をついた」という事実はのちのちまで自分を苦しめます。また、情報の整合性をたもつために将来にわたり、脳みそのワーキングメモリを消費することになります。そして、それだけ心的、身体的エネルギーを空費したのにかかわらず、結局嘘というのはバレがちです。そしてバレたら確実に他者からの信頼を損ないます。
しかしいつも本当のことを言えば、そういうことは一切起こりません。なにも記憶しておく必要がありません。
そして「私はいつも本当のことを言っている」、この自信は人を強くします。見た目や、性格的傾向にも長期的な良い影響を及ぼすでしょう。そして、そういう人が信頼されないということはまずありません。
嘘をつかないのは、自分のためです。こういうことを、あぴちゃんにはよく話しています。
先日の漫画をみて、あぴちゃんがやってない宿題をやった!と嘘をついたじゃないか。と思いたくなる方もいらっしゃるでしょう。わたしとしてはまぁそれに言いたいこともありますが、ここでは反論せずに、あぴちゃんが私のウソについての考えをよく理解していることは日頃の生活ぶりからすでにわかっているということ、わたしは今以上の理解は彼女に特に求めないということ、彼女には私の思う通りというより、彼女の思う通りに生きてほしいと願っていることのみ、述べておきたいと思います。
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