ズボラを超える家事観│あぴママびより
ズボラを超える家事観

ズボラを超える家事観

わたしは片付けしないし
家事は便利家電にたよりきりで洗濯物もたたまない
世間ではこのような態度がズボラという言葉で形容されるのに違和感がある。そういう人にとってはおそらく家事のひとつひとつに理想のやり方とレベルがありわたしのは不完全体に見えているということだろうが
わたしから言わせると、それはそこまでやる必要はないという明確な価値観に基づいて一から自分でデザインしたスタイルである。
なぜわたしに理想がないのかという話は前にラジオでお話ししたが
そもそも多くの人の生きづらさというのはこれに似た理想と現実のギャップなのではないかな。
いったん理想を捨て、自分で考えて自分の最適と思う形を一から設計するのはどうだろうか。
そうするといくらズボラと言われようがきわめてハッピーでマイペースな自分が出来上がるかもしれない。

家事を手抜きに行う人をのことを「ずぼら」と呼ばれることがあるようですが、「ずぼら」という言葉づかいにはとても違和感があります。ずぼらとは、意味を調べると「行動・性格がだらしのないこと。また、そのさまやそのような人」のこと。

家事というのは生活をいとなむのに必要な雑事。料理をしたり衣服を洗ったり、生きる上でのきわめて個人的な活動です。人それぞれいろんなやり方があってよいし、本来はお手本をみて指導を受ける類のものではないのです。

なのにおそらく多くの人が「こうあるべき」という理想の姿を持っている。親から継承されたイメージというのもあるし、メディアから受けた影響というのもあるのかもしれません。そしてその理想のイメージというのはある程度、国民の間で共有できているからこそ、その理想から離れた人を「ズボラ」すなわち「だらしがない人」と呼ぶことに違和感を持つ人がいないのでしょう。

まあしかし、「料理は愛情である」という考え方すら、1960年代以降さかんに言われるようになった、つくられた概念である。ということは先日の「わたしの料理観」という投稿でシェアした記事にも書いてあったとおりです。

現在多くの人が共有している「家事たるものはこうあるべき」という理想。これも多くの人が編纂し編集し作り上げたイメージです。

そんなものと比較することはせず、自分が必要と思うことを一からデザインし、自分の形を決めてみませんか?基本的に、お手本をみてつくったものと、自分でいちからデザインしたものは設計思想が違い、質も違います。それができれば他人と比べることはなくなります。似ているから比べてしまうのです。全部が違うと可笑しくて比べる気にすらなりません。

そういうことをやっているのが我が夫です。みていて清々しいものがあります。

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