


















(引用の妥当性が論じられないでいいという前提に納得できないという件ですが、これは理系の論文だったら、話は別となります。)
けっこうこういうふうに、いろんなことに納得できなかったり、普通のことをすんなりと受け入れられない特性は、ビジネス社会では、現場のさまざまな古い慣習などを新たな目線で打ち砕き改革していく面など、たいへん重宝されましたが、アカデミックの世界などだったらまず生きていけなかっただろうなと思います。
ビジネス社会に入っていく前、つまり大学時代までは、ほんとうに苦しんでいました。「自分だけになにか致命的な欠陥がある」、それを感じてました。青春ですね。
今もけっこうな頻度で「自分にはなにか欠陥がある」とは感じてます。
人間の標準機能として備わっているはずの、「人生を効率化する認知のコピー機能」みたいなものが全くないか、もしくは著しく弱い感じがします。
ところで、Voicyさんは、さまざまにフェスなど、発信者とリスナーの関係性を活発化するイベントを主催し、がんばっていらっしゃいます。
フェスはたいへん良いことですが、わたしはとにかく、そういうのが嫌でした。人混みがまず苦手なんです。
いつもは何かあっても、あまり参加せず、隠れてます。一応わたしのチャンネルは人気ではあるみたいなのに。
しかし、今回は隠れないことにしました。
わたしの代表作Voicy「大人向けの話。障害者。セックス。死。」、これがおもしろかったと感じてくださった方は、わたしにチャンスを与えてくださいますか?
実際わたしは、これでなにかよくわからない賞をもらって、めっちゃ嬉しいとか、そういう気持ちは残念ながらあまりないんです。
ただ、こういうわたしの「差別ってほんとうはなんなのか?」っていうような、人々の普通観に斬りこみを入れるような話が脚光を浴びること自体が、なんだかものすごくおもしろいことのように思えるんです。もし脚光を浴びるのであれば、なんですけどね。
そして、差別は大学時代から変わらず自分のテーマでもあります。
世の中をあたらしいものに、つくりかえていきませんか?という話なんです。
みなさん、5分だけください。
わたしではなく、この話自体に、つまり概念に、脚光を与えてほしいと思うんですね。
だってこの話は、わたしの口をとおして出てきたものではあるけれど、みなさんそれぞれのお話でもあるんだから。
そしてわたしは、この概念は、世界をこれ以上わるくしないと信じてます。