わたしを特徴づける致命的欠陥│あぴママびより
わたしの障害。

わたしを特徴づける致命的欠陥

先日のこの漫画だけれど、発表前にこの漫画をうにゃさんに渡した時、「これは、障害という言葉に何か言ってくる方がいらっしゃるでしょうね。」と、彼女は言った。
だよね。と同意しつつも躊躇せずに発表したら案の定コメントがきた。
あぴママさんの漫画を楽しく拝見しています。が、軽々しく「障害」というワードを使ったやりとりがされていることに、嫌悪感を抱きました。あぴちゃんはこの言葉の重みを理解しているのでしょうか。この場をしのぐためにあぴママさんがあぴちゃんの言葉を引用しただけだと思いたいのですが。様々な読者がいることを少し想像してみれば、「障害」というワードを軽んじて使っているこの投稿は適切かどうか、もう一度お考えください。 彼女のコメントは全く想定内だから、意外なことなんか何もないのよ。既存の社会的には彼女の方がずっと正しいことを言っているのだから。
表面上の正しさだけを追って、その根本にある思想構造の残酷さに気付かないのは、この社会に生きるきわめて普通の多数派のあり方だから。 このまま、背景に思考のない、むしろ考えるという苦しいプロセスを経験したこともない正しさを追い、ときにそれを振りかざし自分や周りの人を締め付ければいい。ただめちゃくちゃ意外で仕方がなかったのが・・・
彼女のコメントを取り上げ、わたしの考えを述べたボイシーが、かなりの好評を博したことである。意外すぎて卒倒しそうだった。
わたしは、あのボイシーであえてタブーに触れた。障害者でもない人間を障害者と言ってもいい。障害がないかもしれない人を、障害がある、と想定してもいい。なんでなのか?それを話したのである。
自分的には10人中2人くらいしか理解できない話、というふうに想定したんだけれど、体感10人中8人がわかったんじゃないかと感じてる。これは本当にすごいし恐ろしいこと。じわじわと嬉しくなり、ずっと忘れていたあることを思い出した。 そういえばわたし卒論のテーマ「差別」だったわ。
大学生の頃、わたしには指導教員がいなかった。だから卒論を書かなければならないときがきたときに、卒論って何なのかっていうのを卒業した人たちの卒論を読んで、学んだ。 これが卒論か・・・
たぶん、わたしには今日に至るまで脳に致命的な欠陥があるという気がしている。 くそつまらんし、マジ茶番みたいな論文だし、こんなレベルでいいんだったら引用文献とか読む必要ないし、こんなのは研究でもないし、卒論かかせて卒業させるっていうプレイにしか見えないし、これは何なんだ・・・
大学っていったいなんなの、なんでみんな真剣に大学プレイができるんだ・・・わたしひとりがおかしいのか。結局わたしが問題なんだ。だってみんな平気そうだもん・・・ 結局、大人になってもこの絶望癖というか、社会をみて超絶不思議に思ってしまう脳みその欠陥は治らず。
結局わたしは文献を読まず、頭にあることのみで構成された論文を一日で書いて卒業証書をゲット。たぶんものすごくたいしたこともないし誰にも相手にされないような論文だったんじゃないかな。本気でかいたkど。 頭がおかしいんじゃないかと思われるリスクを承知でこれを書くが、なんで答えは全て頭の中にあるのに人が書いたものを読まないといけないのかって思う。
例えばさ、手元にある本の後ろに「レイシズム」という本の広告が掲載されてる。そこにはその本の説明として「レイシズムは科学を装った迷信である。人種の優劣や純粋な民族など、存在しない。」と書いてある。 ねえ、そんなことは当たり前じゃん?なんでこのキャッチコピーで読みたい人が現れると思うの?って思ってしまうのよ。なんで当然のことを知るために、著者の中年親父の見解を読まないといけないのかって?って思ってしまう、わたしの欠陥。
こないだもこんな呟きをしたら・・・ 「引用」のある本が軒並みダメで。その限定的引用の妥当性って本文では一切論じられずに、正しいことを前提に議論が進むでしょ。わたしはその前提に同意できなくて・・・。つまり引用の妥当性は論じられるべきではないという前提というか風潮に、同意できないのね。なんかほんと読書自体向いてないって思う。
すごくまともな方がすごくまともなリプライをくださって。。。 哲学の解説書だとそうなると思うのですが、古典はほとんど引用がありません。引用元(哲学の原典)をお読みになれれうのはいかがでしょうか。 また引用箇所が妥当かどうかは大学内では問題になります。本になっているということはそのような議論を経ているのでとりあえず妥当ということなのかと思います。 逆に言えば、学問は常に批判のもとにあるのでこの引用はこうこうこういう理由でここで引用するのは妥当ではないという新たな批判を受けることは、本を出す以上著者は引き受けるつもりで書いておられると思いますよ。主旨とズレていたらすみません
引用箇所が妥当かどうかは大学内で問題になり議論を経ているから妥当と自動的に思える人間がさきほどの私のようなつぶやきするわけないじゃん?権威の判断イコール妥当とするあなたと根本的にものの考え方がちがうんですって。 明らかに、相手の方がまともだからね?わたしの方がおかしいこと言ってるんですよ。
こう振り返ってみると、わたしが書いた卒論もあの話と似てる気がするんだな。何だか時を経て、もう一度、自分なりのやり方で論文を書いたという気がしないでもない。みんなはあんなの論文と言わない。だけどわたしにとっちゃあれだけが論文。学がなくて、学を身につけなくて本当によかったと思っている。学が入ると幽霊の言葉が身についてしまう。

(引用の妥当性が論じられないでいいという前提に納得できないという件ですが、これは理系の論文だったら、話は別となります。)

けっこうこういうふうに、いろんなことに納得できなかったり、普通のことをすんなりと受け入れられない特性は、ビジネス社会では、現場のさまざまな古い慣習などを新たな目線で打ち砕き改革していく面など、たいへん重宝されましたが、アカデミックの世界などだったらまず生きていけなかっただろうなと思います。

ビジネス社会に入っていく前、つまり大学時代までは、ほんとうに苦しんでいました。「自分だけになにか致命的な欠陥がある」、それを感じてました。青春ですね。

今もけっこうな頻度で「自分にはなにか欠陥がある」とは感じてます。

人間の標準機能として備わっているはずの、「人生を効率化する認知のコピー機能」みたいなものが全くないか、もしくは著しく弱い感じがします。

ところで、Voicyさんは、さまざまにフェスなど、発信者とリスナーの関係性を活発化するイベントを主催し、がんばっていらっしゃいます。

フェスはたいへん良いことですが、わたしはとにかく、そういうのが嫌でした。人混みがまず苦手なんです。

いつもは何かあっても、あまり参加せず、隠れてます。一応わたしのチャンネルは人気ではあるみたいなのに。

しかし、今回は隠れないことにしました。

わたしの代表作Voicy「大人向けの話。障害者。セックス。死。」、これがおもしろかったと感じてくださった方は、わたしにチャンスを与えてくださいますか?

実際わたしは、これでなにかよくわからない賞をもらって、めっちゃ嬉しいとか、そういう気持ちは残念ながらあまりないんです。

ただ、こういうわたしの「差別ってほんとうはなんなのか?」っていうような、人々の普通観に斬りこみを入れるような話が脚光を浴びること自体が、なんだかものすごくおもしろいことのように思えるんです。もし脚光を浴びるのであれば、なんですけどね。

そして、差別は大学時代から変わらず自分のテーマでもあります。

世の中をあたらしいものに、つくりかえていきませんか?という話なんです。

みなさん、5分だけください。

わたしではなく、この話自体に、つまり概念に、脚光を与えてほしいと思うんですね。

だってこの話は、わたしの口をとおして出てきたものではあるけれど、みなさんそれぞれのお話でもあるんだから。

そしてわたしは、この概念は、世界をこれ以上わるくしないと信じてます。

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